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峰山線全通映画

デジタル復元完成 配信中

峰山線全通 大正14年11月3日

 峰山駅が完成し鉄道が開通した際に行われた祝賀会、祝賀行事の収められた100年前の貴重な記録フィルム映画です。

 特にこの1年半後に起きる北丹後地震で失われた町内の山車屋台が勢揃いで巡行する姿をはじめ、新地の芸妓衆、失われる直前の町の様子は見物です。

原盤撮影日  大正14年11月3・4日
フイルム復元 昭和59年11月 上映会開催
        16ミリフイルム化

        解説台本作成
フイルム所蔵 京丹後市教育委員会

デジタル復元 令和4年9月25日完成披露上映会開催
  制 作  峰山伝統芸能振興会
  製作協力 ㈱吉岡映像
  特別監修 中村 雅(峰山伝統芸能振興会副会長)

峰山線開通祝賀行事 大正14年11月3日
  大正14(1925)11月3日午前10時、鉄道省が主催し、駅前に設けられた大テントに1500名の関係者が集って祝賀式典が挙行されました。
 琴平新地の芸妓50名が新作「峰山節」を披露し花を添え、午後5時からは峰山町の主催で来賓50名が萬一楼(丹後唯一の三階建を誇る料亭が金刀比羅神社隣にあった)につどい祝宴が催されました。
 10月10日の金刀比羅神社祭礼も鉄道開通を祝って11月4日に行われ、山車屋台が総出動、震災で失われる前の最後の雄姿となりました。
 この様子が映画「峰山線全通」に収められていて、大正時代の映像が残されているだけでも大変貴重な資料です。
デジタル映像製作までのいきさつ
 昭和59年(1984)峰山町教育長河田秀夫氏が大正14年に製作された「峰山線全通」の映像フイルムを公民館で発見されました。当時は国鉄の分割民営化が2年後に迫り、宮津線は廃線の危機に立たされていました。下戸明夫氏(峰山中学校教諭を経て町立図書館長など)は貴重な映画の上映会を計画し、宮津線存続運動の気運を高めるに大いに役立てました。この際原盤の35ミリから16ミリフイルムに再生されました。
 その後この映画が上映されることもなくフイルムの存在も忘れられていましたが、平成23年(2011)の当社二百年祭の折、宮司が記念誌編纂のための資料収集をしている中で発見しました。大正時代のフイルムで上映は不可能との理解で、下戸氏が残されたスナップ写真を公開し、映像化の叶う日が願われました。
 写真公開の記事が新聞に掲載され、これを見てデジタル映像の製作を申し出て下さったのが、京都市上京区に構える㈱吉岡映像さんです。
 ㈱吉岡映像は古く傷んだフイルムを修復しデジタル映像に再生するという屈指の技術を持つ会社で、しかも吉岡社長は丹後町出身の峰山高校卒業生というご縁、新聞記事を見た吉岡社長が奉仕で映像再生を申し出て下さいました。
 これを承けて峰山伝統芸能振興会が令和5年に迎える50周年事業に採用し製作に着手することとなりました。はからずも芸能振興会の巽昭(現会長)・中村雅両副会長は吉岡社長と峰高同級生で、クラスも同窓の中村副会長が担当して制作事業に邁進されましたが、病に急逝され、完成した映画を見ていただくことが出来ませんでした。
 令和4年遂に完成、9月25日上映会開催の晴れの日を迎えることが出来ました。
「峰山線開通映画」シナリオほか
 昭和59年にこの映画の上映会が行われ、下戸明夫先生が解説されたときのシナリオです。
このおかげで当時の様子や人物の特定もできています。
 また、当時の盛り上がりを伝える新聞記事と、峰山線開通祝賀行事に合わせて当社例祭日程を10月から11月4日に変更して執行されたことを記す会議記録「祭典協約書」では、官・民・神社が一体となって行われていたことがよくわかります。
震災前の山車屋台写真 大正期
 明治23年に描かれた祭礼絵図と震災前に撮られた山車屋台の写真。
これらが実際に巡行している様子が「峰山線全通」映画に収録されている。