メニュー 閉じる

狛 猫

こんぴらさんの “狛猫” は 日本唯一とも言われる 大変珍しい守り神です。

向かって左側のネコは子ネコを抱いているので、母ネコか。頭に手をのせ、「アッ」と口を開けています。

右側のネコは「ウン」と口を閉じ、凛とした姿は父ネコか。

神社になくてはならない、シンボル的な存在は「狛犬」ですが、当社境内社「木島社」には大変珍しい「狛猫」が存在しています。

丹後ちりめん発祥の地

ここ丹後 峰山は、丹後ちりめん発祥の地です。今から約300年前、江戸時代享保のころ、峰山の絹屋佐平治は、断食修行までして研鑚と改良の末、ちりめん織の技法を確立しました。
藩の奨励もあって、ちりめんは丹後一円に広まり、峰山はわが国有数の絹織物の集散地に飛躍しました。

峰山の町には、ちりめん問屋、糸屋が軒を連ね、関西方面から来る織物業者で賑わい、周辺の村々で機織りが盛んになり、農家は絹を生産するための養蚕を営みにしたのです。


神に仕えるネコ

養蚕の大敵は「ネズミ」です。ネズミは、マユや蚕などを食い荒らし、農家に大損害をもたらします。そこででネコの登場です。ネコは、蚕が飼われている部屋にいて、ネズミを追いやります。

ネコは、養蚕になくてはならない大切な存在でした。
そして、今もこの丹後峰山の地で「機織養蚕の守護神」にお仕えしているのです。

当社木島神社の縁起は、文政13年(1830年)に、山城国(現京都市)の養蚕の神、木島神社から、地元ちりめん織業者らの信仰によってお迎えされたものです。

そして間もなく、地元の糸商人や養蚕家達によって、この一対の狛猫が奉納されました。

台座周囲には、次の文字が彫られている。

《左側のネコ》
 奉献 江州外村氏 石工鱒留村長谷川松助
 世話人 上河金七 吉田八郎助 小室利七 天保三戴九月

《右側のネコ》
 奉献 当所絲屋中 弘化参午青祀

こんぴらさんの狛猫は日本で唯一ともいわれています。

当社末社木島神社の「狛猫」は他に例のない珍しい存在として近年広く知られるようになってきました。

「狛猫」とは「狛犬」のような石像猫のことで、あくまでも呼称です。正しくは「石猫」でしょうか。実は奉納された当初はまさに石猫だったのです。

ここ丹後・峰山は、丹後ちりめん発祥の地です。ちりめん業や養蚕業にとって絹や蚕を食い荒らすネズミは大敵で、猫は鼠害から守ってくれる大切な存在でした。そこでちりめんの守り神を迎える際、犬ではなく猫がお仕えすることとなったのです。

石猫から狛猫へ

木島神社は文政13年(1830)地元ちりめん業者が峯山藩の許可を得て山城国葛野郡(現京都市右京区太秦)の木嶋神社から養蚕の神をお迎えしました。その後天保3年に左側阿形の石猫が奉献されます。

台座には、 「奉献 江州 外村氏 石工 鱒留村 長谷川松助 世話人 上河金七 吉田八郎助 小室利七 天保三戴 九月」 と刻まれています。 丹後とちりめんの商いを行っていた江州の外村氏が、ちりめん関係者の世話で松助に依頼して、天保3年(1832)に奉献されたことが解ります。

一方の右側の台座には、 「奉献 当所絲屋中 弘化参午青祀」 とだけ記されています。

右側吽形の猫が奉納されたのは弘化3年(1846)、つまり14年間は左側阿形だけだったのです。 はじめから狛犬に代わる阿吽一対の狛猫として計画されたが右側だけ遅れたのか、はじめは石猫一基だけの奉納だったが、後にそれに合わせて右を制作し狛猫として整えられたのか。 今となっては謎ですが、ちりめんの守り神に仕える一対の狛猫として整えられたことに変わりはありません。

 

丹後ちりめん回廊」日本遺産 認定

 平成29年4月28日、丹後2市2町(京丹後市、宮津市、伊根町、与謝野町)を舞台とした『300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊』が、「日本遺産」に認定されました。

「日本遺産」は文化庁が地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリーを認定するもので、地域の魅力を内外に発信し活性化を図ることを目的に平成27年に制度化されました。

 この度の「丹後ちりめん回廊」は2市2町の構成文化財48件からなり、その一つに当社も「狛猫」を前面に丹後ちりめんゆかりの名所として加えていただきました。

 ちりめんを守る大切な存在だった猫は、養蚕の神に狛猫として長く仕えて来ましたが、町おこし有志による「ねこプロジェクト」の活躍や「こまねこまつり」の成功など、益々その存在に注目が集まっています。


300年前に紡がれた 丹後ちりめん

「日本遺産」は全国で54件が認定されており、府内ではこれまでの『日本茶800年の歴史散歩』(京都・山城)、『鎮守府 横須賀・呉・佐世保・舞鶴~日本近代化の躍動を体感できるまち~』(舞鶴市他)に次ぐ3件目の認定となりました。

 構成文化財48件の内訳は伊根町1件、宮津市15件、与謝野町23件、京丹後市11件で、峰山町では禅定寺、常立寺と当社の3件が加わりました。件数を見ると与謝地域に集中しているようにも見えますが、峰山なくして丹後ちりめんはありません。


丹後ちりめん創始と藩政

 享保5年(1720)絹屋佐平治は、禅定寺に7日間の断食祈願を行い、観音様のお告げを聞き、修業した京都西陣で門外不出の技法を習得するに至りました。禅定寺に奉納された初織の丹後ちりめんは寺宝として現存するそうです。

 当時の峯山藩主は4代京極高之公でしたが、5代高長公は享保8年、京都に7軒の問屋を選
定するなど奨励策をとり、享保15年には「お召縮緬や」の暖簾を下賜し、佐平治は森田治郎兵衛と改名を許されました。治郎兵衛は没後京極家菩提寺でもある常立寺に弔われ、今日も顕彰され続けています。

 一方宮津藩領の加悦谷でも享保年に後野の木綿屋六右衛門、三河内の山本屋佐兵衛、加悦の手米屋小右衛門の手で技法が伝えられますが、圧政を敷いていた時の藩主は農業が疎かになるとして機業を弾圧しました。藩主の改易や転封が目まぐるしく続く宮津藩では圧政が続き、機業が認められるのは本庄(松平)家に変わってから。

しかし藩政に管理され重税が課せられるなどし、文政5年(1822)の文政一揆へとつながっていくこととなるのです。

 大一揆から十年後の天保4年(1833)、大宮町下常吉の平地地蔵(常林寺)が鱒留の石工松助の手で完成しています。

この地蔵尊建立の真意は文政一揆で亡くなった義民の供養ということのようです。


丹後ちりめん回廊の象徴

 峯山藩では江戸時代を通じて京極家が藩主を務めて善政を敷き、一度の一揆も起きませんでした。

 丹後ちりめん創業から90年を経て7代京極高備公の文化8年(1811)に金毘羅権現を勧請し、領民へも信仰を促しました。

 文政13年(1830)には、藩主の信仰によって創建された当社の境内に藩政を支えた縮緬業者らの手で養蚕の神・木島神社が勧請されました。さらにその2年後の天保3年に石工松助作の「石像猫」が奉納されます。平地地蔵完成の1年前のことです。

 丹後ちりめん創業時の峯山藩と宮津藩の政策は大きく異なりましたが、以降幾多の苦難の歴史を刻んで丹後の一大産業となり、現在は遺産と呼ばれるに至りました。

 丹後ちりめん繁栄を祈り、希望に満ちて作られた狛猫は、その盛衰を見守り続けてきました。今や『300年を紡ぐ絹が織り成す丹後ちりめん回廊』の象徴的な存在となっています。

 

こまねこが街を救う?!