峯山藩主京極家のご縁
当社は文化8年(1811)、讃岐の金毘羅大権現のご分霊を勧請して創建されましたが、これは時の峯山藩7代藩主京極高備公の大きなご事蹟として今に伝えられています。
その証として今もご本殿両脇に一対の青銅燈籠があります。文政7年(1824)に高備公と次男の高聰公の名で奉献されています。
長男高寧公に早逝され、高聰公を跡取りに決められた頃の奉献で、こんぴらさまのご神威を授かろうと祈願を修められたものです。
丹後国で江戸時代を通して明治維新まで治められたのは峯山京極家だけですが、歴代が苦慮されたのは次代への家督継承です。特に高備公はお世継ぎで最も苦労され、家門と領地の繁栄を祈られたお心が今に伝わっています。
治政250年の間峯山藩領内の神仏への信仰も篤く、代々のご事蹟が今も多くの寺社に奉納物やご社殿、書物や史料などの貴重なご縁の証として遺されています。
京極高備公のご事蹟
本殿両脇の青銅燈籠の竿には、
『奉献 従五位下周防守京極氏源高備』(本殿南側の燈籠)
『奉献 従五位下備後守京極氏源高聰』(北側の燈籠)とあり、両方の裏には『文政七甲申年六月』と刻字があります。
緻密な細工が随所に施され、笠・火袋・台座をはじめ「竿」と呼ばれる柱部分まですべてが六角に統一された特別な物で、奉献者の信仰の深さが伺えます。
長男高寧公に早逝され、跡取りに決められた高聰公と二方の名前で奉献されています。
高備公の父六代高久公は峯山の分家で旗本の京極家からのご養子、父君が江戸幕府の要職若年寄を務められていたので、代わりに高備公が藩の政務を執っていたとされています。
文化5年(1808)に高久公が亡くなって跡を継ぐと、幕府で大番頭を経て文化9年(1812)、父君と同じ若年寄に任ぜられます。
金毘羅権現勧請の翌年のことです。 残念ながら高聰公は家督を継ぐことなく、文政13年(1830)に32歳の若さで先立ちます。三男四男は既に他家に養子に出されていたため、天保3年(1832)家督を五男の高倍公に譲って隠居されました。しかし、その八代高倍公とさらにその跡を継いだ七男の九代高鎮公がわずかな間に自身に先立って次々と早世するなど、苦難の晩年を過ごされ、天保6年(1835)に76歳で亡くなられます。
藩主の家督を守り伝えることは
大変なご苦労で、特に医薬の技が進んでいない時代のこと、家門の繁栄を神仏に頼ることが何より不可欠なことでした。
250年間の数々のご事蹟が遺る寺社にはそのご苦労を顕彰し、伝えていく使命があります。
峯山藩歴代藩主
京極氏は、鎌倉時代、佐々木泰綱が京都六角東洞院に住んで六角氏を称したのに対して、弟の氏信が京極高辻(たかつじ)に邸宅を構え京極氏と名のったことに発する。その五代に佐々木道誉(どうよ)が出て足利尊氏に重用されたため、京極氏の勢いは惣領家の近江守護六角氏をしのぎ、江北三郡に加え飛騨・出雲・隠岐の守護職を兼ね、室町幕府の侍所所司(さむらいどころしよし)を任ずる四職(ししき)の家格を誇った。
ところが、戦国時代以来の衰えは甚だしく、被官であった浅井氏の台頭を招いて北近江における実権も奪われ、その庇護のもとに逼塞(ひっそく)した。 戦国大名浅井氏の滅亡後、高次・高知の兄弟は、豊臣秀吉を頼って京極家の再興をはかり、関ヶ原の戦いの功もあって、高次は若狭小浜、高知は丹後宮津の城主となった。高次の子忠高は出雲松江24万石を領したが、嗣子がなく甥高和が播磨龍野を経て讃岐丸亀に転じて6万石を領し、また多度津1万石を分知した。高知のあと三分された丹後では、総領の宮津藩が改易となり、田辺藩主は豊岡に転じ、峯山藩主だけが廃藩までその支配を守った。
京極高吉の次男として近江国小谷(おたに)に生まれ、兄高次とともに豊臣秀吉に仕えた。戦国時代以来衰微していた名門を高次とともに復興し、近世大名京極氏の祖となった。高次が、本能寺の変で明智光秀に同心し、また関ヶ原の戦いに際して、西軍の攻勢に大津城を失ったのに対して、高知は、岐阜城搦手(からめて)の攻略に一番乗りの功名をあげるなど、その勢威は兄をしのぐこととなった。
近江蒲生郡5千石、信濃飯田城主10万石を経て、関ヶ原の功で、細川忠興のあと、丹後12万3千2百石を与えられた。加増されて丹後に入国したが、本城宮津は細川幽斎が自ら焼いたままであったので、田辺に居城した。室は織田信澄(のぶずみ)の娘、後に毛利秀頼の娘。51歳で京都で没し大徳寺芳春院に葬られた。
高知の娘常照院は、桂離宮の経営で知られる八条宮智仁(はちじようのみやとしひと)親王に嫁いだ。
高長にも男子がなかったため、寛保元年(1741)分家の旗本高庭(たかなお)(初代高通の次男高昌の2代裔)次男の高久を婿養子に迎え、明和2年高長の隠居により家督を継いだ。天明4年(1747)には飢謹のため久美浜で百姓一揆が起こり、代官の依頼により宮津・豊岡・出石の諸藩が加勢、峰山からは160人を出動し鎮撫。大番頭(おおばんがしら)を経て、天明8年(1787)から3年近く若年寄(わかどしより)を勤めた。池波正太郎の「鬼平犯科帳」にも平蔵の上司として登場する。
当社に明治以来伝わっていた由緒では「高久は讃岐多度津京極家から峯山へ養子に迎えられ、郷の金毘羅権現を深く信仰され、峯山への勧請が念願であった。高備がその遺志を継いで勧請を遂げた。」というもので、近年その誤りが正された。
明和2(1765)~文化5(1808)在任
嘉永2年(1849)隠居した父高景のあとを継いだが、同時に幕政最後の時期にその中枢にあった。慶応2年(1866)若年寄に進み、徳川慶喜が大政を奉還し王政復古の号令が発せられたのち、慶応4(明治元)年2月に辞するまでその任にあった。また、慶応3年末から翌年はじめ海軍奉行を兼任した。
鳥羽・伏見の戦いに勝利した新政府が、西国寺公望(さいおんじきんもち)を総督として派遣した山陰道鎮撫使は、1月26日には峰山に入り、国元では対応に追われたが、3月になってようやく上洛した高富は、朝廷から恭順謝罪が遅れたことを咎められ、謹慎を命じられた。5月にそれが解かれると、高富は隠居し、養子の高陳(たかのぶ)に家督を譲った。これが最後の藩主となり、知藩事を経て、明治4年(1871)の廃藩より12代250年に及ぶ峰山藩の歴史は終わった。
維新後の高富は、峰山に隠居所を構えまた、栃木の日光東照宮、相模寒川神社、京都大原野神社の宮司などを歴任した。
嘉永2(1849)~慶応4(明治元1868)在任
明治13~再任(藩知事)
12代 京極高陳(たかのぶ)公
1839生・1893没
明治元(1868)~明治13(1880)在任(明治2年からは峯山藩知事)
本文・『丹後京極家と肖像画の世界』より
肖像画・常立寺所蔵